2009年10月25日

安藤美姫が逆転優勝ロシア杯、浅田真央は絶不調なんと5位

フィギュアスケートグランプリ(GP)シリーズ第2戦のロシア杯最終日は24日、女子フリーが行われ、ショートプログラム(SP)3位の安藤美姫トヨタ自動車)が114.75点で首位。SPと合わせた総合で171.93点となり逆転優勝を決めた。安藤のGPシリーズの優勝は06年のスケートアメリカ以来、3季ぶり2度目。SPで6位と出遅れた浅田真央中京大)はフリーでも得点を伸ばせず総合150.28点で5位に終わった。


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フィギュアスケートのGPシリーズ第2戦、ロシア杯の最終日が25日、モスクワで行われ、女子の安藤美姫(22)=トヨタ自動車=がフリーでトップとなり、合計171.93点でショートプログラム(SP)3位から逆転優勝、GP通算2勝を飾った。





 SP6位と出遅れた浅田真央(19)=中京大=はトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)の1回目で転倒するなどフリーでも得点が伸びず合計150.28点で5位に終わり、GPで初めて表彰台を逃した。








安藤美姫





「うれしいというよりほっとした。今季はプログラムに不安がない。落ち着いてシーズンに臨めている。結果は良かったが、滑りに納得はしていない。課題も見つかったのでステップにしたい」











浅田真央





「トリプルアクセルはどうしても力が入ってしまう。体に悪いところはないし、ジャンプも崩れてない。あとは気持ちをコントロールできるようにしたい」
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2009年04月08日

キースがニコールにキスする際には、ほほに届かず首もとに…。それでも二人は、仲むつまじく

ニコール・キッドマンが、ラスベガスで行われた第44回カントリー・ミュージック協会賞の授賞式に夫のキース・アーバンとともに参加した。ニコールは、背中部分のみ大きく開いた、首からつま先までをぴったりと覆う黒のドレスを着用。黒のハイヒールを履いていたため、夫キースよりもかなり背が高くなり、キースがニコールにキスする際には、ほほに届かず首もとに…。それでも二人は、仲むつまじくカメラに向かって笑顔を見せていた。 [シネマトゥデイ映画ニュース] 

0kiss.jpg

一言 女性のほうがハイヒールを穿いて、なお背伸びして片足を跳ね上げてkissをおねだりしている姿が美しく、楽しく、望ましい姿です。


ニコール・マリー・キッドマン(Nicole Mary Kidman、1967年6月20日 - )はアメリカ合衆国ハワイ州出身のオーストラリアの女優。

これまでアカデミー賞、ゴールデングローブ賞受賞。2006年にオーストラリア市民の最高の栄誉である、勲章「Companion of the Order of Australia (AC)」を受勲。ユニセフ親善大使。

本名 Nicole Mary Kidman
生年月日 1967年6月20日(41歳)
出生地 アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル
国籍 (二重国籍)
職業 女優
ジャンル 映画
活動期間 1983年 -
活動内容 1983年:映画初出演
2003年:アカデミー賞受賞

配偶者 トム・クルーズ (1990年 -2001年)
キース・アーバン (2006年 - )
主な作品
=『バットマン・フォーエヴァー』
『アイズ・ワイド・シャット』
『ムーラン・ルージュ』
『めぐりあう時間たち』
『コールド マウンテン』

[隠す]受賞
アカデミー賞
主演女優賞
2002年『めぐりあう時間たち』
英国アカデミー賞
主演女優賞
2002年『めぐりあう時間たち』
ゴールデングローブ賞
主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)
1996年『誘う女』
2002年『ムーラン・ルージュ』
主演女優賞 (ドラマ部門)
2003年『めぐりあう時間たち』
ゴールデンラズベリー賞
最低スクリーンカップル賞
2005年『奥さまは魔女』with ウィル・フェレル
その他の賞
ベルリン国際映画祭銀熊賞
2003年『めぐりあう時間たち』


生い立ち
オーストラリア人の両親のもとにハワイ州ホノルルで生まれたため、アメリカ合衆国とオーストラリアの二重国籍である。4歳でオーストラリア・シドニーに戻った。3歳下にアントニアという妹がおり、アントニアはオーストラリアでテレビ番組のプレゼンターをしている。

4歳からバレエを習い始め、Australian Theatre for Young Peopleで発声や演劇史を学ぶようになる。


キャリア
15歳からテレビやミュージック・ビデオなどに出演、映画にも出るようになり、オーストラリア映画で実績を積む。1988年に出演した『デッド・カーム/戦慄の航海』を偶然目にしたトム・クルーズに招かれてハリウッド入りし、『デイズ・オブ・サンダー』で共演、1990年に結婚した。

ハリウッド進出当時は、当時の夫であり、ハリウッド進出に導いたトム・クルーズ夫人としての側面が強く、いわゆる型どおりの美人女優として平凡なキャリアに甘んじた。しかし2001年にトム・クルーズとの離婚を機に、充実したキャリアを開花させ、以降、アメリカを代表する演技派女優として変身を遂げた。

2001年公開の『ムーラン・ルージュ』でゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)を受賞。2003年公開の『めぐりあう時間たち』では、特殊メークによる付け鼻で完全に自らの容姿を隠し、ヴァージニア・ウルフを演じきり、アカデミー主演女優賞やゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)などを受賞した。

2004年には日本をはじめ世界各国で放映されたシャネルの香水「No.5」のテレビコマーシャル(監督:バズ・ラーマン)に出演し、120秒(一部の国では240秒)という異例の長さのCMに注目が集まった。また、出演料も破格であった。現在はオメガの顔として広告に出演している。

映画1作品の出演料が高額なことで知られており、2006年には「最も出演料の高い女優1位」となる[1]。しかし、高額なギャラ相応の興行収入が稼げないことから、2008年のフォーブス誌では「コストパフォーマンスの悪い俳優1位」になってしまった[2]。


私生活
アメリカ版『ザ・リング』などで有名なナオミ・ワッツとは、オーストラリア時代のルームメイトで今でも大親友。

1990年にトム・クルーズと結婚したが、2001年に離婚。二人は養子を二人取っているが、離婚後はお互いのもとを交互に暮らしている。トム・クルーズとの離婚後はレニー・クラヴィッツやスティーヴ・ビーイングなどと交際した時期もあった。2006年6月25日、カントリー歌手のキース・アーバンとシドニーで結婚式を挙げる[3]。2008年7月7日、第一子となる女児(サンデー・ローズ・キッドマン・アーバン)を出産[4]。

2007年1月、ロサンゼルス市内において『インベージョン』の撮影中に乗っていた車が事故を起こし、スタッフら8名とともに病院に搬送された。彼女に大きなけがはなく、検査などを受けた後、病院を出た。スタント・ドライバーが運転を誤ったことが事故原因と見られる[5]。


主な出演作品
公開年 邦題
原題 役名 備考
1983 BMXアドベンチャー
BMX Bandits ジュディ
1985 アーチャーズ・アドベンチャー
Archer's Adventure 日本未公開
陽のあたる街角
Vietnam テレビ映画
1986 ニコール・キッドマン in シャドウ・オブ・ブロンド
Watch The Shadows Dance Nightmaster エイミー・ガブリエル 日本未公開
ウインド・ライダー
Wind Rider Jade 日本未公開
1987 誘惑の香り
An Australian in Rome ジル 日本未公開
1988 最も危険な悪女
Emerald City ヘレン/マイクの彼女 日本未公開
デッド・カーム/戦慄の航海
Dead Calm レイ 日本未公開
1989 囚われた女
Bangkok Hilton カトリーナ テレビ映画
1990 ニコール・キッドマンの恋愛天国
Flirting ニコラ 日本未公開
デイズ・オブ・サンダー
Days of Thunder Dr.クレア
1991 ビリー・バスゲイト
Billy Bathgate ドリュー ゴールデングローブ賞 助演女優賞ノミネート
1992 遥かなる大地へ
Far and Away シャノン
1993 マイ・ライフ
My Life Gail Jones
冷たい月を抱く女
Malice トレイシー
1995 バットマン・フォーエヴァー
Batman Forever チェイス・メリディアン博士
誘う女
To Die For スーザン ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)受賞
英国アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
1996 ある貴婦人の肖像
The Portrait of a Lady イザベル
妻の恋人、夫の愛人
The Leading Man アカデミー賞のプレゼンター
1997 ピースメーカー
The Peacemaker ジュリア・ケリー博士
1998 プラクティカル・マジック
Practical Magic ジリアン
1999 アイズ・ワイド・シャット
Eyes Wide Shut アリス
2001 ムーラン・ルージュ
Moulin Rouge! サティーン ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)受賞
アカデミー主演女優賞ノミネート
アザーズ
The Others グレース ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)ノミネート
英国アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
2002 パニック・ルーム
Panic Room スティーブンの恋人 声のみの出演
クレジット表記なし
バースデイ・ガール
Birthday Girl ナディア
めぐりあう時間たち
The Hours ヴァージニア・ウルフ アカデミー主演女優賞受賞
英国アカデミー賞 主演女優賞受賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)ノミネート
2003 ドッグヴィル
Dogville グレース
コールド マウンテン
Cold Mountain エイダ・モンロー ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)ノミネート
白いカラス
The Human Stain フォーニア・ファーリー
2004 ハリウッドセレブ恋愛裏事情
Studio Portraits: Love Hollywood Style テレビ映画
ステップフォード・ワイフ
The Stepford Wives ジョアンナ・エバハート
記憶の棘
Birth アナ ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)ノミネート
2005 ザ・インタープリター
The Interpreter シルヴィア・ブルーム
奥さまは魔女
Bewitched イザベル/サマンサ ゴールデンラズベリー賞ワースト・スクリーン・カップル賞受賞
2006 ハッピー フィート
Happy Feet ノーマ・ジーン 声の出演
毛皮のエロス/ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト
Fur: An Imaginary Portrait of Diane Arbus ダイアン・アーバス
2007 インベージョン
The Invasion キャロル・ベネル
ライラの冒険/黄金の羅針盤
The Golden Compass コールター夫人
マーゴット・ウェディング
Margot at the Wedding マーゴット 日本未公開
2008 オーストラリア
Australia サラ・アッシュリー夫人 日本2009年2月公開


主な受賞
アカデミー賞
2002年度 主演女優賞 『めぐりあう時間たち』
ゴールデングローブ賞
1995年度 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門) 『誘う女』
2001年度 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門) 『ムーラン・ルージュ』
2002年度 主演女優賞(ドラマ部門) 『めぐりあう時間たち』
英国アカデミー賞
2002年度 主演女優賞 『めぐりあう時間たち』
ベルリン国際映画祭
2002年度 銀熊賞 『めぐりあう時間たち』
放送映画批評家協会賞
1995年度 主演女優賞 『誘う女』
MTVムービー・アワード
2002年度 主演女優賞/音楽シーン賞(デュエットシーン)『ムーラン・ルージュ』
ゴールデンラズベリー賞
2005年度 ワースト・スクリーン・カップル賞 『奥さまは魔女』(ウィル・フェレルと共に)

posted by kimeiga at 20:12| Comment(11) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月14日

◆「7年目の浮気から」有名なスカートめくりのシーンyoutubeより

まりりん・もんろー.jpg

伝説の大女優マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)の写真が12月16-17日、米ニューヨーク(New York)で競売に掛けられる。出品作品には、通風口の上でめくれ上がった白いスカートをおさえる、彼女の象徴的な写真も含まれている。

◆「7年目の浮気から」有名なスカートめくりのシーン
Marilyn Monroe deleted scenes from Seven Year Itch


 今回の競売には、ゲイリー・ウィノグランド(Garry Winogrand)撮影のモンローが通風口の上で微笑みながらスカートをおさえる作品や、1万-1万5000ドル(約91-137万円)の値がつくと予想されるトム・ケリー(Tom Kelley)撮影の米男性誌・プレイボーイ(Playboy)創刊号に使用されたモンローのヌードなどが出品される。

 ニューヨークのオークションハウス・クリスティーズ(Christie's)によると、今回は過去最大規模の出品になる見通しで、モンロー作品以外にもヘルムート・ニュートン(Helmut Newton)ら著名な写真家の作品が競売に掛けられる。(c)AFP




★マリリン・モンロー(Marilyn Monroe, 1926年6月1日 - 1962年8月5日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の女優。本名ノーマ・ジーン・モーテンセン(Norma Jeane Mortensen)、その後改名してノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jeane Baker)。1950年代中盤から現在に至るまで「アメリカのセックスシンボル」と称される。モンローというスクリーンネームは彼女の母親の姓である。

Marilyn Monroe


身長166.4cm 体重53.5kg 

スリーサイズ バストB94cm ウエストW61cm ヒップH86cm

トレードマークは、真っ赤に塗られた唇、口元のホクロ、モンロー・ウォークと呼ばれた独特な歩き方。フェラガモに作らせた靴のサイズは、24.5cm。ノルウェー人の血を引いているといわれるが、本当の髪の色はブロンドではなく褐色(ブルネット)であった。



経歴

生い立ち
ノーマは片親家庭に生まれた。アメリカ合衆国には戸籍がないので、出産直後に医者が書く出生証明書が法的な意味をもつことになっている。彼女の出生証明書には、父:モーテンセン、氏名:ノーマ・ジーン・モーテンセンと記載されていることから、彼女の本名はノーマ・ジーン・モーテンセンであることに異論はない。

しかし本当の父がモーテンセンであるかどうかは疑わしい。彼女の母グラディス・モンローは「あなたのお父さんはベイカーよ」とノーマに告げていたとされる。ノーマ自身もそう信じていたためか、女優になってから後年、「本名は?」と質問された際には「ノーマ・ジーン・ベイカーです」と答えている。

ノーマという本名の由来は、母グラディスが、当時好きだった女優ノーマ・タルマッジからとったとされる。母グラディスは、「モンロー宣言」で知られるジェームズ・モンロー大統領が先祖であると周囲にもらしていたが、娘のモンロー自身は一笑に付したとされる。

日本語訳されている評伝のなかには、モンローは孤児だったと書いているが、母親がいたのだから日本語では孤児と呼ぶことは出来ない。これは彼女が孤児院(orphanage)や養子として育てられたために受けた誤解である。モンローには異父姉妹の姉が居る。姉のことは後年、女優になってからも気にかけていたという。その姉はモンローの葬儀に参列している。

モンローの映画を手がけた20世紀フォックスはモンローのプロフィールで、年齢を2歳さばを読んで発表していた。そのため映画解説者の淀川長治も、彼女が34歳で亡くなったと、TVの『日曜洋画劇場』の解説で言ったことがある。


19歳の頃に雑誌『YANK』に掲載されたものモンローの母親は精神病を患っていた。グレース・マッキー(後Goddard)が、彼女の保護者になった。マッキーが1935年に結婚した後で、モンローはロサンゼルスの孤児院へ、その後伝えられるところでは性的虐待及びネグレクトで支配された養家へ連続して送られ、その事に起因してか、吃音症を患うようになってしまった。当時の大統領の政策で、里親にはいくらかの補助金が支給されたため、お金目当てで子供を引き取る家もあったとされ、モンローもいくつもの家をたらい回しにされたり、大事に扱われなかったりした。

16歳で、母の家の近所に住むジム・ドハティと最初の結婚をする。その後、スカウトされてモデルとして活動し始める。彼女の夫はモデル業に理解を示さなかったため、結婚から4年で離婚。

当時所属していたモデル会社の名は、「ブルーブック・モデルズ・エイジェンシー」。ブルーブックとは、いまでいうアダルト本のことであり、モンローがヌードモデルをしていたことも頷ける話である。

1947年に20世紀フォックスの『嵐の園』という映画に端役で初出演するが、あまりぱっとせずに契約を切られてしまう。しかし女優への夢を諦めきれなかった彼女はコロムビア映画に移籍、『コーラスのレディたち』で準主役となる。しかしコロムビア映画とはその映画一本のみで終わってしまう。その後は再びヌードモデルなどをしながら演技の勉強をし、エージェント(交渉代理業者)を探す日々が始まる。


トップスターに

米軍の慰問に訪れたマリリン(1954年2月17日)1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出、1952年の『ノックは無用』で初主演。1953年『ナイアガラ』での腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』や『七年目の浮気』が大ヒットして一躍トップスターとなった。

1954年2月1日に元野球選手ジョー・ディマジオと結婚。読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねて日本を訪れたが、結婚生活は9か月しか続かなかった。

野球の仕事を兼ねていたディマジオは、滞在中忙しく外へ出かけることが多かった。野球に興味のなかったモンローは一人ホテル(旧帝国ホテル)で待つ日々が続いた。そんな折、朝鮮戦争で駐留していた在韓米軍を慰問してほしいという依頼が舞い込む。暇を持て余していたモンローには断る理由がなかった。行くなと反対するディマジオと喧嘩するようにして韓国へ向かった。彼女は戦車に乗り、多くの荒くれ兵士たちを前にして歌い、自分が一番光れる場所で光り輝いた。だが、韓国から帰ってきたモンローは、風邪を引いてしまう。治療のため呼ばれたのが、指圧の心の故浪越徳治郎であった。彼は全裸のモンローに指圧を施した。

その後、セックスシンボルを脱したかった彼女は、ニューヨークに移りリー・ストラスバーグが主催するアクターズ・スタジオで演技の指導を受けている。マーロン・ブランドと『欲望という名の電車』を演じ好評を博したことは彼女に自信を取り戻させた。1955年ディマジオと離婚。

1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚するが、1957年頃から不安定な状態が続き、睡眠薬を飲み過ぎたりして、精神病院に入ったりもした。アンナ・フロイト(ジークムント・フロイトの娘)には境界性人格障害と診断されたが、正確なところは分からない。

1961年にアーサー・ミラーと離婚。この頃、ジョン・F・ケネディと交際していたと言われている。同年に封切られた映画『荒馬と女』の評判が悪く、また共演のクラーク・ゲイブルが撮影終了後に亡くなったこともあって不安定になり再び精神病院に入院。この時、よりを戻した(2番目の)元夫ディマジオが彼女を支えた。

1962年、映画『女房は生きていた』の主演になるが、たびたび撮影をすっぽかすため制作はほとんど進まなかった。5月(亡くなる3か月前)には、マディソン・スクウェア・ガーデンで催されたジョン・F・ケネディ大統領の45歳の誕生日パーティー(司会は俳優ピーター・ローフォード(ケネディの妹の夫))で『ハッピーバースデートゥーユー』を歌い、「いつ死んでも悔いはない」とケネディに言わしめた(なお、ケネディは翌年凶弾に倒れている)。『女房は生きていた』の主役は結局降ろされた(のちにドリス・デイ主演で公開)。しかし、数年前にFOXニュースが20世紀フォックスの倉庫から発見した資料によると、FOX首脳部との会談で、そりの合わなかった監督を降板させ、モンローを復帰させる契約が交わされていた事が分かった。さらに、「何という行き方!」というミュージカル大作への出演も決まっており、モンローが配給会社から見捨てられ、失意の中で死んでいったという仮説は成立しなくなることが分かった。



死と波紋
1962年8月に36歳で死去。死の直後、マスコミでは死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で、自殺の模様と大々的に報道され、世界に多大な衝撃・悲嘆が駆け巡った。ただのドラッグ・オーバードーズであるとの声もある[1]。

しかし1980年前後以降は自殺説は影を潜め、何者かによる謀殺説が根強く叫ばれ続けている(謀殺説はモンローの死後間もない時期から存在していた)。現場からは自殺に使うはずのコップは発見されておらず、また彼女が遺体で発見されたとき、手には受話器が握られていたものの、電話局からは通話記録はなく、部屋からは彼女の日記(赤い手帳)が消えていた。

急性バルビツール中毒による体の不調を受けて救急車を自ら呼ぶために受話器を取ったものの、ダイヤルする前にこと切れたという説の他に、仮に謀殺だとすると、電話の通話記録の改ざん・隠蔽を行うことができる政治力の持ち主が関わっていたとする主張がある[2]。

なお、ジョン・F・ケネディ大統領と不倫関係にあったことが死後複数の証言から暴露された上、お互いを紹介したのがマフィアの大ボスに関係しているフランク・シナトラであったと言われていることが、この謀殺説を後押ししている。また、弟であり当時の司法長官だったロバート・F・ケネディとも不倫関係にあったと噂されていて、常に会話の内容をメモしていた赤い手帳が表に出るのを避けたという話もある。

モンローを司法解剖した監察医は、トーマス野口こと野口常富である。よく日系2世と間違われるが日本生まれの日本人である。またモンローに戒名をつけた人がいる。キックボクシングの解説でも知られた寺内大吉和尚。1973年8月5日、東京都世田谷区の大吉寺本堂で、モンロー13回忌の法要が営まれた。同寺の住職であった寺内はお経をあげ、モンローに「鞠利院不滅美色悶浪大姉(まりりいんふめつびしょくもんろうだいし)」という戒名を捧げた[3]。

その墓所は故郷ロサンゼルスのウエストウッド・メモリアルパークにある。彼女の死後、元夫ディマジオの計らいで、定期的に赤いバラ(品種:アメリカン・ビューティー)が供えられていた。ディマジオの亡き後は、ファンクラブなどのボランティアの手で続けられていて、今もバラが絶えることはない。



主な出演作品
1947年:『嵐の園』でスクリーンデビュー。『Dangerous Years』
1948年:『Ladies of the Chorus』
1949年:『Love Happy』
1950年:『彼女は二挺拳銃(A Ticket to Tomahawk)』『アスファルト・ジャングル(The Asphalt Jungle)』
1950年:『イヴの総て(All About Eve)』
1951年:『ふるさと物語(Home Town Story)』
1952年:『ノックは無用(Don't Bother to Knock)』『モンキー・ビジネス(Monkey Business)』
1953年:『ナイアガラ(Niagara)』
ナイアガラより



1953年『紳士は金髪がお好き(Gentleman Prefer Blondes)』
1953年:『百万長者と結婚する方法(How to Marry a Millionaire)』
1954年:『帰らざる河(River of No Return)』
1954年:『ショウほど素敵な商売はない(There's No Business Like Show Business)』
1955年:『七年目の浮気(The Seven Year Itch)』
1956年:『バス停留所(Bus Stop)』
1957年:『王子と踊子(The Prince and the Showgirl)』
1959年:『お熱いのがお好き(Some Like It Hot)』 - ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)受賞
1960年:『恋をしましょう(Let's Make Love)』
1961年:『荒馬と女(The Misfits)』

その他
セクシーなブロンド美女が現れるとその人物を「マリリン・モンローの再来」という事がある。

マリリン・モンローの再来といわれている人物
マドンナ(口元のホクロの位置が同じだった為によく言われていた)[4]
アンナ・ニコル・スミス(マリリン・モンローの人生そのものに憧れており「マリリン・モンローの様な死に方をしたい。」と発言していた。皮肉にもモンロー同様に謎多き死に方をしており、その通りとなった。)[5]
スカーレット・ヨハンソン[6]
エヴァ・ハーツィゴヴァ(『90年代のマリリン・モンロー』と称された)[7]
パリス・ヒルトン(ただし、自称)[8]
井上和香(マリリン・モンローとスリーサイズが同じであるとして、和製モンローと称されたこともあるが、井上のスリーサイズは上から90-60-90である為、実際は異なる。こう称した小堺一機がマリリン・モンローのスリーサイズを間違えて覚えていたようである。)[9]
モンロースマイル
親の愛情に恵まれていない子供ほど、周囲の大人に気に入られようとして魅力的な笑顔を振りまく傾向があることを示す心理学用語。マリリン・モンローは、チャーミングな笑顔で多くの人々を魅了したが、その笑顔は不遇な子供時代に周囲の大人たちの歓心を買うため自然と身に付いたものだと言われている。オーディションなどで笑顔の印象的な子役を選んでみると、両親の離婚など家庭に複雑な事情を抱えている子供が多いことから、モンローにちなんで名づけられた。
モンロー・ウォーク
マリリン・モンローはお尻を通常よりも大きく左右に振ってセクシーに見える歩き方をすることで有名で、これを指して「モンロー・ウォーク」と呼ぶ。この独特な歩き方の秘密は、彼女が意図的に左右のヒールの長さを変えていることにある。おおよそ、左のヒールよりも右のヒールを4分の1インチ(6ミリメートル強)程度短くしているとされる。

関連作品
映画『マリリンとアインシュタイン』(INSIGNIFICANCE、1985、米):監督 ニコラス・ローグ、出演:テレサ・ラッセル、ゲイリー・ビューシイ、トニー・カーティス
映画『ノーマ・ジーンとマリリン』(Norma Jean and Marilyn、1996、米):監督 ティム・フェイウェル、 出演:アシュレー・ジャド、ミラ・ソルヴィノ、ジョシュ・チャールズ、ピーター・ドブソン
ノンフィクション『マリリン・モンローの真実』(アンソニー・サマーズ)

関連事項
ウィキメディア・コモンズには、マリリン・モンロー に関連するマルチメディアがあります。ジョン・F・ケネディ
ロバート・ケネディ
ジョー・ディマジオ
シャネルNo.5
アンディー・ウォーホル
ブリジット・バルドー
ヒュー・ヘフナー
ユーニス・マレー
向井真理子
浪越徳治郎
モンロー (小惑星)

参考文献
亀井俊介著『マリリン・モンロー』岩波書店[岩波新書]。1987年7月発行。ISBN 4004203813
亀井俊介著『アメリカでいちばん美しい人――マリリン・モンローの文化史』岩波書店。2004年12月発行。ISBN 400022025X

外部リンク
マリリン・モンロー公式サイト(英語)
マリリン・モンロー PLAYBOYオンラインのプレイメイト紹介(英語)
モンローとグリーンへのトリビュートサイト(英語)
マリリン・モンロー - Internet Movie Database(英語)
マリリン・モンロー- allcinema
マリリン・モンロー at Find A Grave(英語)

脚注・出典
[ヘルプ]
^ アンソニー・サマーズ 『マリリン・モンローの真実(下)』 中田耕治訳、扶桑社〈扶桑社ミステリー〉、1988年、250・254頁。ISBN 978-4594003166
^ ロバート・スレイツァー 『マリリン・モンロー他殺の証明』 仙名紀訳、朝日新聞社、1993年、314頁。ISBN 978-4022565730
^ 作家・寺内大吉と詩人・白石かずこのインタビュー記事「鞠利院不滅美色悶浪大姉はアメリカ民主主義の匂いがした」『サライ』4巻10号、通巻65号、30-31頁、小学館、1992年5月21日。
^ OnGen. "マドンナ特集". 2008年9月29日 閲覧。
^ J-CAST. "資産550億円ベビィ!DNAパパは「死んでも離さない」". 2008年9月29日 閲覧。
^ 『THE BIG ISSUE JAPAN 59号』より
^ X BRAND. "輝きを取り戻したスーパーモデルたちの謎に迫る!". 2008年9月29日 閲覧。
^ シネマトゥディ (2008年2月8日). "パリス・ヒルトン、ショッキング・ピンクのドレスで「わたしは現代のモンロー」". 2008年2月19日 閲覧。
^ アイトピックス! (2003). "井上和香 ファーストVIDEO&DVDの発売イベント
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2008年09月28日

ポール・ニューマンさんが26日、がんのため家族に見守られながら自宅で死去


AP通信によると、映画「明日に向って撃て!」や「スティング」などで知られる米映画界を代表する俳優の一人、ポール・ニューマンさんが26日、がんのため死去した。家族に見守られながら自宅で息を引き取ったという。83歳だった。

 オハイオ州でスポーツ用品店を営む裕福な家庭に生まれ、母親の勧めで児童演劇団に入団した。第二次世界大戦中には海軍に入隊し、除隊後、大学を経て俳優養成所で演技を学んだ。1953年にブロードウェーの舞台でデビューし、55年の「銀の盃(さかずき)」で映画デビュー。一時テレビに活動の場を移すが、実在のボクサーを演じた56年の「傷だらけの栄光」の迫真の演技で注目された。男らしくセクシーな正統派の二枚目であると同時に、反抗心を秘めた危険な香りも漂わせ、複雑な感情を巧みに表現する演技派としても重用された。

 「ハスラー」(61年)、「明日に向って撃て!」(69年)、「スティング」(73年)、「タワーリング・インフェルノ」(74年)など次々と話題作に出演しスターの地位を固めた。68年には「レーチェル・レーチェル」を監督し、アカデミー賞候補になった。「スクープ・悪意の不在」(81年)、「評決」(82年)など社会派作品でも重厚な演技を見せた。何度もアカデミー賞候補になりながら受賞には縁がなかったが、86年「ハスラー2」で主演男優賞を受賞した。
0ポールロバート

 一方で、ベトナム戦争反対や反核運動に参加するなど、社会的活動にも積極的に取り組んだ。自動車のレーサーとしても活躍し、79年のル・マン24時間耐久レースで2位に入賞。82年には食品販売会社を設立し、ドレッシングなどを発売して成功を収めた。私生活では2度目の結婚で、女優のジョアン・ウッドワードさんとおしどり夫婦として知られた。長男のスコットさんも俳優だったが、78年、麻薬中毒で死去したことから麻薬反対活動に資金を提供。事業の利益を寄付するなど、慈善活動にも熱心だった。日本の障害児のためにと毎日新聞社会事業団を通じ、93、94、97年に寄付したことがある。

 最近では脇役で渋い存在感を見せ、05年にテレビドラマ「追憶の街エンパイア・フォールズ」でエミー賞とゴールデン・グローブ賞を受賞。晩年まで活躍したが、07年5月、「満足できるレベルの役者でいられなくなった」と俳優引退を表明した。今年6月、がんで闘病中と報じられていた。
0ポール


 ◇精神が自由で柔軟
 映画評論家、佐藤忠男さんの話 直情径行型の青年役から出発したが、上手に年輪を重ね、食えない中年男を演じられる柄の大きさを身につけた。精神が自由で柔軟だったのだろう。反戦・反核など社会活動にも熱心だったといい、その幅の広さ、底の深さは、いかにもアメリカ的だったと言える。得難い俳優を失った。

 ◇陰ある演技見せた
 評論家、川本三郎さんの話 ゲーリー・クーパーやクラーク・ゲーブルら戦前からの男優が強く明るい英雄を演じたのに対して、戦後に現れたニューマンさんらの世代は「負け犬」的なヒーロー像を体現した。中でも「ハッド」で見せた彼の陰影ある演技は忘れがたい。彼の存在が60年代後半のニューシネマの方向を示した。理想的な俳優人生を送ったと思う。毎日新聞より

★ポール・ニューマン(Paul Newman,本名:Paul Leonard Newman, 1925年1月26日 -2008年9月26日)は、アメリカ合衆国の俳優。3度のアカデミー賞受賞を初めとして数多くの受賞歴を持つ。また、食品製造会社「ニューマンズ・オウン」の設立者であり、1982年の設立以降挙げた純利益2億2千万ドルを全額寄付。その他レーサー、政治運動家としても多くの功績を残す。1950年代以降半世紀以上にわたり第一線で活躍した人物。


来歴・人物

生誕から終戦まで
オハイオ州クリーブランドで、スポーツ用品店を経営するハンガリー系ユダヤ人の父・アーサーと、同じくカトリックの母・テレサとの間に生まれる。幼い頃は脆弱で学校でいじめを受けていた。7歳の時、演劇好きの母の勧めで児童演劇団に入団。『ロビン・フッド』の道化師役で舞台に立つもポールは演劇に関心を示さなかった。12歳の時、クリーブランドの児童演劇部に入部。高校卒業後は定職に就かず百科事典の訪問販売などで生計を立てていた。その後、家業を継ぐためにアセンズのオハイオ大学経済学部で学ぶが、第二次世界大戦が勃発し海軍に入隊。航空機操縦士を志願するが色盲により叶わず。 その後、爆撃機、雷撃機の後部銃座手(兼無線手)の訓練を受ける。 1944年、航空機無線手としてハワイのバーバーズポイントに割り当てられ、その後雷撃隊に配置される。 TBF/TBM アベンジャーの後部銃座手となり1945年春、空母バンカーヒルに乗艦し沖縄戦に参加。


紆余曲折を経て演劇の道へ
終戦後にオハイオ大学を経て進学したケニヨン・カレッジではフットボールに打ち込むも、チーム内の喧嘩が原因で除名処分を受けたため、子供の頃に学んだ演劇の道を志す。卒業後、地方の劇団を渡り歩き演劇の修行に励む傍ら1949年に結婚。翌年に父親が他界すると一旦家業を継いだが、演劇講師になるための学費を工面するために父の代から続いた店を売却。進学先であるイェール大学大学院で披露した演技がエージェントの目に留まり、ニューヨークに招かれた。テレビドラマや舞台における演技が認められ、1952年にジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドと共にアクターズ・スタジオに入学。


賞賛と挫折
初の大役となったブロードウェイの舞台『ピクニック』での演技が映画関係者から高い評価を受け、ワーナー・ブラザースと5年間の専属契約を交わす。アクターズ・スタジオに同期で入学したディーンが主役を演じた『エデンの東』では、当初主人公の兄を演じる予定でスクリーン・テストまで行ったものの、監督のエリア・カザンがニューマンの出演を却下。1954年に『銀の盃』でスクリーンデビューを果たすものの、作品自体が映画評論家から失敗作の烙印を押されるという不本意なデビューとなった。ディーンとブランドがそれぞれ『エデンの東』『波止場』でトップスターへと上り詰める一方で、ニューマンは満足のいく作品に出演できないうえ、スタジオや批評家から「第2のマーロン・ブランド」と称されることに失望し映画界を離れ、活動の拠点を舞台とテレビドラマへ移した。


俳優としての成功と再婚
舞台とテレビドラマにおける演技が賞賛されたニューマンは、ディーンの急逝により主演のポストが空白となっていた映画『傷だらけの栄光』に、監督のロバート・ワイズの依頼を受け出演。実在のプロボクサー、ロッキー・グラジアノの話し方や癖を模倣するなど、徹底した役作りを敢行した末に臨んだ同作は高く評価され、一躍注目を浴びる存在となった。1956年に最初の妻と離婚。1958年、先述の舞台『ピクニック』で知り合った女優、ジョアン・ウッドワードと、映画『熱く長い夜』での再共演を機に再婚。6人の子を儲ける鴛鴦夫婦となる。さらに同年の映画『熱いトタン屋根の猫』で初めてアカデミー主演男優賞にノミネートされるなど、公私共に充実した時期を迎えた。


No.1スターから監督業進出
1960年代はニューマンにとって順風満帆そのものであった。1961年の『ハスラー』で英国アカデミー賞の男優賞を受賞すると、1963年の『ハッド』での受賞を機に1965年と1967年の3度、ゴールデングローブ賞の「世界で最も好かれた男優」に選出された。さらに、妻のウッドワードを主演に起用した初監督作品『レーチェル レーチェル』では、同年度のアカデミー賞で作品賞を初めとした4部門にノミネートされたほか、ゴールデングローブ賞とニューヨーク映画批評家協会賞では監督賞受賞に加えて妻に女優賞を齎した。

1969年にロバート・レッドフォードと共演したアメリカン・ニューシネマの西部劇『明日に向って撃て!』は生涯最高のヒットを記録。マネー・メイキングスターの1位に選出され、トップスターとしての地位を不動のものにした。さらに製作者としての飛躍を求めてシドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドと共に映画製作会社「ファースト・アーティスツ」を設立した。


レーサー・政治運動家・父子共演
「ファースト・アーティスツ」設立後初めて製作を担当した映画『レーサー』でのレーシング・スクールへの参加を機にカーレースに熱中するようになり、44歳にしてレーサーとしてプロデビューを果たした。俳優業でも成功は続き、1973年の『スティング』ではレッドフォードとの競演の末、同年度のアカデミー作品賞を受賞。翌1974年の『タワーリング・インフェルノ』での報酬は100万$に達し、息子のスコット・ニューマンとの共演も実現した。

ベトナム戦争の敗北を目の当たりにしたニューマンは、積極的な公民権運動ならびに反戦運動を展開。活発な運動と過激な発言は、当時のアメリカ大統領であるリチャード・ニクソンを敵に回す結果になり、1973年にホワイトハウスが公表したブラックリストにその氏名が記載された。


出演作品の不発と愛息の死
1975年にカール・ハースとともにニューマン・ハース・レーシング(現「ニューマン・ハース・ラニガン・レーシング」、en:Newman/Haas/Lanigan Racing)を結成し、CARTに参戦した。1977年のデイトナ24時間レースで5位を記録すると、1979年のル・マン24時間レースでは2位を記録。レーサーとしても華やかな成功を記録した。その一方で、俳優業は不振が続き『タワーリング・インフェルノ』のアーウィン・アレンと再びタッグを組んだパニック映画『世界崩壊の序曲』は興行的に大失敗したうえ批評家からは「史上最低のパニック映画」と酷評され、ニューマン自身も同作への出演を後悔する旨の発言をする始末であった。さらに1978年には、大スターの息子である重圧に耐えかねたスコットが酒とドラッグに溺れ命を落とした。愛息の死を嘆いたニューマンは、麻薬撲滅運動の展開を決意。ドラッグで命を絶たれた息子の名を冠した「スコット・ニューマン基金」を設立し、ドラッグの弊害を描いた映画やテレビ番組に対する資金提供を行っている。


ニューマンズ・オウン設立とアカデミー賞受賞
1970年代後半は不振続きであった俳優業も、1980年代に入ると1981年の『スクープ・悪意の不在』から『アパッチ砦・ブロンクス』『評決』と立て続けに出演した社会派作品でリアリティのある演技を披露し新境地を開拓した。また、自家製のサラダを自慢していたニューマンは1982年、冗談半分で食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立。極力食品添加物を排除したフレンチ・ドレッシングは好評を博し、スパゲッティーのソースやポップコーンの販売にも着手。日本では日本アムウェイが商品の販売に参入するなど、ニューマンの知名度も相乗効果を齎し、瞬く間に世界規模での事業拡大に成功。純利益を全額、貧困に喘ぐ子供たちに寄付している。

俳優としても1983年にゴールデングローブ賞の生涯功労賞に相当するセシル・B・デミル賞を受賞。さらに1985年、長年の功績を称えられ、アカデミー名誉賞を受賞。翌1986年には『ハスラー2』での演技が認められアカデミー主演男優賞を受賞。2年連続でオスカー像が授与され、アメリカ映画界にその名を残す俳優となった。
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俳優・実業家としての成果、引退
還暦を超えても第一線での映画出演を続けたニューマンは、1994年の『ノーバディーズ・フール』でベルリン国際映画祭などで数多くの男優賞を受賞。2002年の『ロード・トゥ・パーディション』で9度目となるアカデミー賞ノミネート(初の助演男優賞部門)を果たすと、傘寿を迎えた2005年にはテレビドラマ『追憶の街 エンパイア・フォールズ』でゴールデングローブ賞とエミー賞を受賞。2006年には、ピクサーのアニメーション映画『カーズ』でメインキャストのドック・ハドソン役で声の出演を担当。止め処無く活躍を続けるニューマンに対し、一部映画関係者からロバート・レッドフォードとの最後の共演作品が企画されるなどさらなる活躍が期待されていたが、2007年5月25日、出演したABCテレビの番組において、加齢による演技力・記憶力の衰退から自分の納得する演技が不可能になったと語り、俳優としての活動を引退することを正式に発表した[1]。

ニューマンにとってプライベートでの著名な活動の一つである「ニューマンズ・オウン」は4半世紀に及ぶ運営で挙げた2億2千万$の純利益を全額恵まれない子供たちに寄付。1993年にはその功績に対しアカデミー賞のジーン・ハーショルト友愛賞が贈られた。俳優としての活動に終止符を打った後は、これらの事業や家族とのコミュニケーションに専念する意向を示している。

2007年6月、中西部オハイオ州ガンビアの母校ケニヨン大に対し、奨学基金の設立資金として1000万ドル(約12億2000万円)の寄付を申し出た[2]。今回の寄付について「母校への個人的愛情や恩義」と説明。奨学金は家庭の事情で学費が払えない非白人のマイノリティー(少数派)の学生らに支給されるという。

2008年5月に年後半に予定していた舞台の監督を健康面を理由に降板すると発表して以降、健康状態について末期の肺がんで闘病生活を送っているとの報道が相次いでなされ、マネジメント事務所は「元気でやっている」とだけのコメントを発表をした[3]。

その後、報道は鎮静化していたが、既報のがんが原因で現地時間の2008年9月26日、コネチカット州ウェストポートの私邸に於いて逝去。83歳没[4]。


エピソード・トリヴィア
日本では、日産自動車の6代目R30型スカイライン(1981年-1985年)のTVCMに出演しており、「ニューマン・スカイライン」の名で広告展開されていた事で、6代目R30型スカイラインの生産販売が終了してから20年以上経った現在も「ニューマン」の愛称で自動車ファンからも広く親しまれている。
50年の長きにわたり連れ添っているウッドワードとの鴛鴦夫婦ぶりについてニューマンは「家でステーキを食べられるのに、わざわざ外でハンバーガーを食べる必要はないさ。」と語っている。
政治的にはレフティーを自認し、ブッシュ政権が進めようとしている富裕層の相続税減税について「私のような金持ちから税金を取らないのは馬鹿げている。」と語っている。
ロレックスのデイトナを愛用していたことがきっかけで、ロレックス・デイトナに「ポール・ニューマン・モデル」と正式に名づけられたモデルが存在する。

主な出演作
傷だらけの栄光 Somebody Up There Likes Me (1956)
左ききの拳銃 The Left Handed Gun (1958)
熱いトタン屋根の猫 Cat on a Hot Tin Roof (1958)
栄光への脱出 Exodus (1960)
ハスラー The Hustler (1961)
動く標的 The Moving Target (1966)
引き裂かれたカーテン Torn Curtain (1966)
暴力脱獄 Cool Hand Luke (1967)
レーチェル レーチェル Rachel, Rachel (1968) 監督のみ
明日に向って撃て! Butch Cassidy and the Sundance Kid (1969)
オレゴン大森林/わが緑の大地 Sometimes a Great Notion (1971) 監督、主演
スティング The Sting (1973)
タワーリング・インフェルノ The Towering Inferno (1974)
スラップショット Slap Shot (1977)
世界崩壊の序曲 The Day World Ended (1980)
アパッチ砦ブロンクス Fort Apache: The Bronx (1981)
評決 The Verdict (1982)
ハスラー2 The Color of Money (1986)
ガラスの動物園 The Glass Menagerie (1987) 監督のみ
ミスター&ミセス・ブリッジ Mr. & Mrs. Bridge (1990)
未来は今 The Hudsucker Proxy (1994)
ノーバディーズ・フール Nobody's Fool (1994)
ザ・シンプソンズ The Simpsons (2001) 声の出演
ロード・トゥ・パーディション Road to Perdition (2002)
カーズ Cars (2006) 声の出演

吹き替えを担当した声優
川合伸旺
井上孝雄
堀勝之祐
津嘉山正種
小川真司
近藤洋介
羽佐間道夫

脚注
^ AFPBB News『ポール・ニューマン 俳優人生に幕』2007年5月26日
^ eiga.com 映画ニュース『[http://eiga.com/buzz/20080912/5 寛大なセレブベスト30を発表!第1位は人気司会者オプラ・ウィンフリー』2008年9月12日
^ AFPBB News『俳優ポール・ニューマン、「末期の肺がん」の報道』2008年6月12日
^ CNN“Paul Newman dies at 83”2008年9月27日、毎日新聞『訃報:ポール・ニューマンさん83歳=米俳優』2008年9月27日

外部リンク
ニューマン・ハース・レーシング
ニューマンズ・オウン
日本アムウェイ
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2008年06月29日

「第三の男」光と影の映像美と音楽

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第三の男
The Third Man
監督 キャロル・リード
製作 キャロル・リード
デヴィッド・O・セルズニック
アレクサンダー・コルダ
脚本 グレアム・グリーン
出演者 ジョゼフ・コットン
オーソン・ウェルズ
アリダ・ヴァリ
音楽 アントン・カラス
撮影 ロバート・クラスカー
公開 1949年9月3日
1952年9月3日
上映時間 104分
製作国 イギリス

『第三の男』(だいさんのおとこ、原題:The Third Man)は、1949年のイギリス映画。この映画のテーマソング。日本ではヱビスビールのCM(これがきっかけで恵比寿駅の発車メロディにも採用)や、阪急電鉄梅田駅で終電間際に流れる音楽などに使われている。ハリー・ライムのテーマとも。

概要

監督はキャロル・リード。作家グレアム・グリーンの脚本。グリーンは脚本執筆の準備として、同名の小説も書いている。

1950年のアカデミー賞では撮影賞(白黒部門)を受賞し、監督賞と編集賞にノミネートされた。

第二次世界大戦直後のオーストリアで、四ヶ国(米英仏ソ)によって四分割統治される首都ウィーンの殺伐とした世相を背景とするサスペンス映画である。光と影を効果的に用いた映像美、戦争の影を背負った人々の姿を巧みに描いた内容は高く評価されており、カットなしで撮影された墓地でのラストシーンは映画史に残る名場面として非常に有名。音楽にアントーン・カラスが演奏する民俗楽器のツィターを採用し、この味わい深いテーマ音楽も広く知られた。

オーソン・ウェルズによる名台詞、「スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義はいったい何をもたらした? 鳩時計だよ」は、グリーンの原作および当初の脚本には存在せず、ウェルズの提案によるものである。

最後のシーンは映画史に残る名高いものだが、実はこれは当初の予定にはなかった。本来ならば通俗的なハッピーエンドとなるはずであった。それが逆になったことで、深い余韻を残すようになった。

光と影の映像美、チターの音楽、アリダ・ヴァリ の美しさ
ラストシーンの美しさなどを味わってもらえばこの上ない喜びです。


あらすじ
舞台は第二次世界大戦後、オーストリアの首都・ウィーンが四ヶ国(米英仏ソ)による四分割統治下にあった時代。当時酒場などで聴けたというチター(アントン・カラス演奏)のメロディをBGMに物語の幕が開く。

アメリカの売れない小説家ホリー・マーチンスは、親友ハリー・ライムから仕事を依頼したいと誘われ、意気揚揚ウィーンを訪れる。しかし、到着してみるとハリーは自動車事故で死亡したという。葬儀に出るとキャロウェー少佐と知り合った。彼はハリーが闇取引をしていると告げたが、信じられないマーチンスはハリーへの友情から事故への疑問とともに真相究明を決意する。ハリーの恋人アンナと目撃者に話を聞くことで、現場に第三の男がいたことをつきとめるが……


スタッフ
監督、制作:キャロル・リード
原作、脚色:グレアム・グリーン
撮影:ロバート・クラスカー
音楽、ツィター(チター)演奏:アントーン・カラス

キャスト
ジョゼフ・コットン - 米国小説家(主人公):ホリー・マーチンス(小説版ではロロ・マーチンス)
アリダ・ヴァリ - ハリーの恋人:アンナ
トレヴァー・ハワード - 英国のMP:キャロウェー少佐
オーソン・ウェルズ - マーチンスの親友:ハリー・ライム
バーナード・リー - キャロウェーの部下:ペイン軍曹
ウィルフリッド・ハイド=ホワイト - GHQ職員:クラビン
エリッヒ・ポント - ハリーの主治医:ビンケル医師
エルンスト・ドイッチュ - ハリーの親友:クルツ男爵
ジークフリート・ブロイアー - ハリーの親友:ポペスク
パウル・ヘルビガー - 管理人

日本語吹替
DVD版(発売元:マックスター、ミック・エンターテイメント)
マーティンス:咲野俊介
アンナ:沢海陽子
キャロウェー少佐:中博史
ハリー・ライム:相沢正輝
ペイン軍曹:藤田周
演出:田島荘三 翻訳:高橋有紀 制作:ミック・エンターテイメント

受賞歴
アカデミー賞 (1950年):撮影賞(白黒部門)
カンヌ国際映画祭 (1949年):グランプリ
英国アカデミー賞 (1949年):作品賞(国内部門)


●第三の男のラストシーンyou tube



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2008年06月28日

『風と共に去りぬ』"Tomorrow is another day."

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『風と共に去りぬ』(原題:Gone with the Wind)は、1939年に公開されたヴィクター・フレミング監督作のアメリカ映画であり、マーガレット・ミッチェルによる同名の世界的ベストセラー小説『風と共に去りぬ』を映画化、全編で3時間42分という大長編であるにも関わらず、当時空前のヒットを記録した。

メトロ・ゴールドウィン・メイヤーとセルズニック・プロダクションが製作したテクニカラー方式による大作メロドラマであり、製作費や宣伝費に大金を注ぎ込む嚆矢となった作品でもある。

アカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演女優賞(ヴィヴィアン・リー)、助演女優賞(ハティ・マクダニエル・黒人俳優初)、脚色賞ほか特別賞を含め9部門を受賞。

ちなみに、この作品が受賞することが授賞式で発表される前に新聞社が発表してしまった為、それまで新聞社にはあらかじめ知らせてあった受賞結果をプレゼンターが名前を読み上げるまでは厳重に管理することとなった。

一言 老若男女にお薦めできる映画というと『風と共に去りぬ』(原題:Gone with the Wind)である。配役、内容、音楽どれをとっても最高レベルにある。若かりし頃リバイバル映画で彼女の手を握り締めてドキドキはらはらしながら見た記憶がある。何といってもヴィヴィアン・リー扮するスカーレットが美しい。逆境に置ける強く逞しい女性の行き方に感動です。くじけそうになった時この言葉を口ずさんでください。

"Tomorrow is another day."(明日という日があるわ)


キャスト
※()は日本語吹き替え版。左から順に、ワーナー発売のDVD版/PDDVD版/ワーナー発売のコレクターズ・ボックス版(日本テレビ新録版)/日本テレビ版/テレビ東京版、を表す。

スカーレット・オハラ:ヴィヴィアン・リー(日野由利加/日野由利加/戸田恵子/栗原小巻/田中美佐子)
レット・バトラー:クラーク・ゲーブル(大塚明夫/内田直哉/江守徹/近藤洋介/渡辺謙)
アシュレ・ウィルクス:レスリー・ハワード(原康義/村治学/荻島真一/滝田裕介/井上倫宏)
メラニー・ハミルトン:オリヴィア・デ・ハヴィランド(平淑恵/堀江真理子/香野百合子/谷育子/岡本茉莉)
ジェラルド・オハラ:トーマス・ミッチェル(?/島香裕/織本順吉/神田隆/山野史人)
エレン・オハラ:バーバラ・オニール(?/?/富田恵子/中西妙子/吉野佳子)
マミー:ハティ・マクダニエル(くじら/?/中村たつ/中村たつ/神保共子)
スエレン・オハラ:イヴリン・キース(?/?/勝生真沙子/?/?)
キャリーン・オハラ :アン・ラザフォード(?/?/岡本茉利/?/?)
ミード博士:ハリー・ダベンボート(?/?/久米明/横森久/久米明)
ピティパットおばさん:ローラ・ホープ・クルーズ(?/?/?/?/山本与志恵)
フランク・ケネディ:キャロル・ナイ(?/?/?/?/小山力也)

スタッフ
監督:ヴィクター・フレミング
製作:デヴィッド・O・セルズニック
音楽:マックス・スタイナー

受賞歴
1939年(第12回)アカデミー賞
作品賞:風と共に去りぬ
監督賞:ヴィクター・フレミング
主演女優賞:ヴィヴィアン・リー
助演女優賞:ハティ・マクダニエル
脚色賞:シドニー・ハワード
撮影賞(カラー):アーネスト・ホーラー、レイ・レナハン
室内装置賞(美術賞):ライル・ウィーラー
編集賞:ハル・C・カーン、ジェームズ・E・ニューカム
特別賞:ウィリアム・キャメロン・メンジース(劇的な色彩の使用に対して)
(主演男優賞、作曲賞、特殊効果賞(視覚効果賞)、音響賞 にもノミネート)
1939年(第5回)ニューヨーク批評家協会賞
女優賞:ヴィヴィアン・リー

その他・備考
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。
事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。
このタグは2008年3月に貼付されました。

1939年12月15日にアトランタから公開開始。初公開時には、南北戦争の南軍兵士の生き残りが招待された(初公開を報じた当時のニュース映画にも、その模様が映っている)。
「二度と製作することができない豪華さ」と喧伝され、アメリカ映画協会が選出した「アメリカ映画ベスト100」では4位となったように、映画史上屈指の名作の一つと評される。スカーレット役選びが難航したこと、プロデューサーのセルズニックが自らの意を通すために断行した度重なる脚本家や監督の交代劇など、その製作過程には数々の逸話が残されている。
スカーレット役選びは映画制作前の一大キャンペーンとして、全米各地にてオーディションが行われた。映画の舞台であるアトランタで選ばれたイブリン・キーズはスカーレットの妹スエレン役にキャスティングされた。
スカーレット役の有力候補にはベティ・デイビス、ラナ・ターナー、フランシス・ディー、スーザン・ヘイワード等。カメラテストも行われ、ポーレット・ゴダードにほぼ内定していたが、チャーリー・チャップリンと未婚のまま同居していたこともあって白紙となった。

監督は当初ヒューマンドラマの名匠ジョージ・キューカーだったが、セルズニックが思うような迫力を出せず、フレミングに交代した。さらに、映画制作終盤で一時サム・ウッドが監督になった。過労のためぴりぴりしていたフレミングにセルズニックがあれこれ口を出したためといわれる。

マックス・スタイナーによるテーマ曲『タラのテーマ』は、格調高いナンバーとして映画音楽の古典となっている。

アメリカ国内での興行収入は198,676,459米ドルであり、チケットの値段のインフレ調整を行うと第1位になる。[1]

日本での初公開は1952年。映画で描かれる南部の栄光と南北戦争敗北による没落から見事経済的に成功するものの精神的な幸福感を得られないヒロイン・スカーレット・オハラの姿が、太平洋戦争での敗北から高度経済成長の途上にありながらも、大義や志を失った当時の日本の姿と一致したこともあって、高額な入場料であるにも拘らず大ヒットロングランとなった。

なお、太平洋戦争中、上海、シンガポール、マニラ等で軍隊関係の日本人が多く見て、「こんな映画を作る国と戦争しても勝てない」と衝撃を受けた。小津安二郎や徳川夢声もシンガポールでこの映画を観ている。なお、その評判が噂を呼んで、東京にフィルムを空輸して、軍関係者のみの試写会が行われたという[2]。

日本では1966年に世界で初めて舞台化。更に1975年10月8日と10月15日に日本テレビ(放送権を6億円で購入したとされる)で前・後編に分けて世界で初めてテレビで放映され、33.0%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)の視聴率を記録した。

有名なヒロインの最後の台詞は「After all, tomorrow is another day. (結局、明日は別の日なのだから)」である。従来はこれを「明日は明日の風が吹く」と訳すことが多かったが、最近ではより原文に近い「明日という日がある」と訳されることが多い。

しかし当のアメリカでより有名な台詞は、この直前にレットが去り際に吐く捨て台詞である。スカーレットに「これから私はどうしたらいいの?」と聞かれたレットは、「Frankly, my dear, I don't give a damn. (はっきり言ってね、おまえ、そんなこと俺の知ったことか。)」と振り向きざまに言う。この「damn」は強いののしりの言葉で、製作当時は映画において使うべきではない言葉 (いわゆる禁止用語) と考えられていたが、原作の台詞を一言も変えないというセルズニックの強い意向によって盛り込まれた。2005年、アメリカ映画協会はこれを「最も記憶に残る映画のセリフ」に選んでいる。(なお日本語での定訳は「知らないね、勝手にするがいい。」)

1989年、アメリカ国立フィルム登録簿に登録された。
作品賞のオスカー像は競売に出されて、マイケル・ジャクソンが1999年の6月に150万ドル(約1億5750万円)で落札した。ジャクソン曰く、「この映画のオスカー像を手に入れるのが長年の夢だった」。

ただし、アメリカでは『風と共に去りぬ』に不快感をもつ黒人が多い。理由の一つは、人種差別団体のクー・クラックス・クラン(KKK)を正当化して描いていること、もう一つは、プリシー等に見られるように黒人を無能に描いていることである。アメリカでは公共の場所では『風と共に去りぬ』の上映が不可能になっている。

正規版DVDは2種類有り、通常版と限定版がある。通常版(レンタルも、こちら)は世にも稀な両面1層なので再生中に裏返す必要がある。限定版(セルのみ)は4枚組(本編2枚、特典2枚、いずれも片面2層)の構成となった。

本作は作品中(オープニングタイトル、エンドロール等)に著作権表記が無かったため公開当時の米国の法律(方式主義)により権利放棄とみなされ、米国に於いてはパブリックドメインとなった(このため、コモンズに高解像度のスクリーンショット、ウィキクオートに台詞の抜粋が収録されている)。又、日本においては著作権の保護期間が完全に終了(公開後50年と監督没後38年の両方を満たす)したことから複数の会社から激安DVDが発売中され、前編と後編に分けて片面1層で発売したものと、片面2層として裏返したり入れ替えたりする手間を省けるようにしたものがある。

脚注
^ BOX OFFICE MOJO
^ 小林信彦『映画×東京とっておき雑学ノート』P.72
WIKIより




posted by kimeiga at 20:36| Comment(0) | 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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